45億年以上の地球史のなかで、最古の金鉱床の生成は、地球形成の時代とされる30億年前の始生代に起こったと伝えられています。
それは、南アフリカの地下深く広がるグリーンストーン帯です。
そのプロセスは、まだ不安定な状態にあった初期の地球が、クラトンと呼ばれる安定した状態となるために大規模な横ずれを起こしたためとされています。
それにより生じた剪断帯(せんだんたい)の各所に隙間ができ、そこを上昇路としてマグマによる熱水が、地殻深く眠る金を地表へと運んだと考えられています。
天正元年(1573年)会津初の領主 芦名家17代、盛興(もりおき)によって拓かれた高玉金山。
戦国時代の生き残りをかけ、金銀の獲得が重要であったことから、その開発は大いに奨励され、時代を追うごとに発展しました。
鉱床は、本山・青木葉・鶯の三鉱床群からなり、鉱脈数は脈名のついたものだけでも1000条を超え、最盛期(1935年)には、年間1t以上の金を算出しました。
その結果、日本三大金山に数えられるまでに。隆盛を極めました。
400年の時を経て金山の歴史と栄華を今に伝える黄金の郷、それが高玉金山です。
400年にわたり山を、里人を守護し続ける黄金神社。
黄金神社は、天正元年(1573年)会津の守護大名 芦名盛興が、高玉金山の開山にあたり、金銀を採掘する坑夫たちと里人の案内を祈願して、高玉山頂に祀られたと伝えられています。
神社には、水源と水利、金石などを掌る「大山祇神」と、金山などを護り掌る神「金山彦命(カネヤマヒトノミコト)」と「金山姫命(カネヤマヒメノミコト)」が 祀られており、誰言うともなく「黄金神社」と呼ぶようになりました。
近年の再開坑にあたり、高玉山頂から現在の青木葉坑東側に遷座しました。また、坑内最深部には先人の偉業をたたえて観音様をお祀りしています。
天正元年の高玉金山の開山から四百年にわたり山を、里を、そして人々を見守り続けてきた黄金神社。現在も金銀を生じさせる神として、また長寿、縁結び、安産の神として近郷近在の里人の平穏な暮らしを守護してくださる身近な神として厚い信仰を集めています。
□天平時代□
0749−天平21
陸奥国(現、宮城県遠刈田郡黄金迫)で砂金が発見される。
※奈良時代以来、産金は砂金または練金で陸奥国司より
朝廷へ貢献された。
□安土桃山時代□
1573−天正01
会津藩主芦名盛興公によって「高玉金山」開山。
高玉金山は主として、本山・鶯・青木葉の三坑部(エリア)に
分かれており、当開発坑道は青木葉に属している。
青木葉エリアには、天正年間(1573〜1591年)に
開発されたとされる金ヶ渋山金山や三百両山、松坂山の金山があり、
本山付近と同様の歴史をもっている。
高玉金山は、加納、高旗、佐渡とあわせて
芦名四金山ともいわれている。
1590−天正17
蒲生氏郷時代(1590〜1598年)に他の鉱山と同様に
開発が奨励されたと考えられ、武器(種子島銃の購入)や
兵隊の調達などに、あるいは豊臣・徳川への運上、
献上物として金銀の獲得は重要だったと推察される。
□江戸時代□
1643−寛永20
保科正之が就封するとともに、高玉金山は二本松領となる。
1696−元禄09
二本松藩高玉金山奉行として中村与葱左衛門(1684年没)の記述あり。
(二本松寺院物語)以後技術的に限界に達したためか、
鉱山記述はなくなる。
※オーストラリア ビクトリア州で、
重さ71kg、世界最大の自然金が発掘される。(1869年)
□明治時代□
1893−明治26
樽混泉法による製錬を開始。
1903−明治36
青化製錬法による製錬を開始。
□大正時代□
1918−大正07
高玉金山として生産を開始。
1920−大正09
本山〜熱海駅間に索道を架設。
鶯軌道(馬車)設備。青木葉坑開発に入る。
□昭和時代□
1929−昭和04
日本鉱業の経営となる。
1962−昭和37
日鉱、高玉鉱業所を廃止。
高玉鉱山株式会社となる。
索道廃止、トラック輸送へ。
1976−昭和51
生産を全面休止。
総生産量、金28t、銀280t。
採掘総延長600km。
□平成時代□
1996−平成08
観光施設、「ゴールドマイン高玉」として再開坑する。
2004−平成16
高玉金山土地管理組合として運営。